逆鉾昭廣の相撲人生と早逝の真相|井筒三兄弟の絆と鶴竜を育てた功績
昭和から平成へと移り変わる大相撲黄金期、土俵際で見せる豪快な「もろ差し」と切れ味鋭い「ガブリ寄り」でファンを熱狂させた元関脇・逆鉾昭廣(15代井筒親方)。名門・井筒部屋のサラブレッドとして生まれ、兄の鶴嶺山、弟の寺尾とともに「井筒三兄弟」として角界に一大旋風を巻き起こしました。
引退後も師匠として第71代横綱・鶴竜を育てるなど相撲界の発展に大きく貢献しましたが、2019年9月、58歳という若さですい臓がんにより急逝。本稿では、報道各社の記録や関係者の証言を丹念に再構成し、逆鉾昭廣の波乱万丈な経歴、知られざる闘病の真実、家族と三兄弟の絆、そして後世に遺した偉大な功績を詳しく紐解きます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:卓越した「もろ差し」の技術で通算571勝を挙げ、三賞9回・金星3個を獲得した昭和・平成の名関脇
- 要点2:58歳での急逝の背景には進行の早いですい臓がんがあり、最期まで本場所の土俵と愛弟子の行方を案じ続けた
- 要点3:「井筒三兄弟」の歴史と次世代育成(横綱・鶴竜の誕生、愛娘と志摩ノ海の縁)は角界史に深く刻まれている
【波乱の生涯】逆鉾昭廣の知られざる経歴と「もろ差し名人」としての足跡
逆鉾昭廣(本名:福薗好昭)は1961年6月18日、鹿児島県姶良郡加治木町(現・姶良市)ゆかりの地で、元関脇・鶴ヶ嶺(14代井筒親方)の次男として東京都墨田区で生を受けました。幼少期から相撲の英才教育を受け、父譲りの美しい足腰と卓越した相撲センスを開花させていきます。
1978年初場所に初土俵を踏むと、順調に番付を上げ、1981年名古屋場所で新十両、1982年九州場所で新入幕を果たしました。逆鉾の代名詞となったのは、相手の懐へ電光石火で両腕を差し込む「もろ差し」と、腰を激しく上下に揺らしながら前へ出る「ガブリ寄り」です。小兵でありながら、大型力士を土俵外へ弾き飛ばすその取り口は「もろ差し名人」と称賛され、昭和後期から平成初期の相撲人気を牽引しました。
幕内在位は62場所に及び、東関脇を最高位として通算成績571勝558敗70休を記録。殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞5回の計9回にわたる三賞受賞、さらに横綱から奪った3個の金星は、逆鉾がいかに実力派として土俵に君臨していたかを物語る決定的な数値データです。

【闘病の真相】58歳の若さで急逝した死因・すい臓がんと最期の土俵情熱
現役引退後は15代井筒親方として後進の指導にあたっていましたが、2019年9月16日、大相撲秋場所の開催中に58歳でこの世を去りました。公式発表および報道各社の取材によって明らかになった死因は「すい臓がん」でした。
体調の異変を感じて精密検査を受けた時点で病状はかなり進行しており、本場所を休場して東京都内の病院に入院。抗がん剤治療を受けながら病魔と闘っていました。関係者の証言によると、病床にあっても相撲への情熱が衰えることはなく、テレビ中継で愛弟子である横綱・鶴竜の取組を毎日食い入るように見つめ、勝敗に一喜一憂していたといいます。
秋場所初日直前に容体が急変し、弟の錣山親方(元関脇・寺尾)や愛妻、愛娘ら家族に見守られながら静かに息を引き取りました。現役の審判部副部長として角界を支えていた中での早すぎる死は、相撲関係者のみならず日本全国のファンに大きな衝撃と深い悲しみを与えました。
【井筒三兄弟の伝説】鶴嶺山・逆鉾・寺尾の歴史と角界を沸かせた家族の絆
大相撲の歴史において「井筒三兄弟」の名は特別な輝きを放っています。長男・鶴嶺山、次男・逆鉾、三男・寺尾の3人が同時に井筒部屋に所属し、関取として活躍した姿は、多くのメディアで大々的に特集されました。
母の早逝という悲劇を乗り越え、父である先代親方の厳しい指導のもとで切磋琢磨した三兄弟。特に次男・逆鉾と三男・寺尾はともに最高位・関脇まで上り詰め、土俵の内外で互いを強烈に意識し合うライバルであり、誰よりも理解し合う戦友でした。土俵上では互いに感情を表に出さず激しい稽古を重ねながらも、一歩土俵を降りれば強い絆で結ばれていたことは、当時の対談や手記でも数多く語られています。
| 力士名(続柄) | 最高位・通算成績 | 取り口・主な特徴 | 引退後の足跡 |
|---|---|---|---|
| 鶴嶺山(長男) | 十両2枚目 335勝342敗20休 | 堅実な押し相撲と右四つ。弟2人を支える温厚な人柄 | 引退後は相撲界を離れ、実業や飲食の世界で兄弟を後方支援 |
| 逆鉾(次男) | 東関脇 571勝558敗70休 | 「もろ差し名人」の異名。鋭い出足とガブリ寄り | 15代井筒親方として部屋を継承。第71代横綱・鶴竜を育成 |
| 寺尾(三男) | 東関脇 860勝938敗58休 | 甘いマスクと猛烈な突っ張り。幕内出場歴代3位の鉄人 | 錣山部屋を創設し師匠として弟子を育成(2023年12月逝去) |

【名伯楽の眼力】第71代横綱・鶴竜を育て上げた師弟関係の奇跡
15代井筒親方としての最大の功績は、モンゴル出身の青年マンガラジャラブ・アナンダを、第71代横綱・鶴竜力三郎へと育て上げたことです。
2001年、相撲経験がほとんどなく細身だった鶴竜を受け入れた際、親方は「体は小さいが、目の輝きと素直さがある」と見抜き、徹底的に基礎を叩き込みました。井筒部屋伝統の四つ相撲の技術を惜しみなく注ぎ込み、精神面でも「礼儀と品格」を何より重んじる指導を徹底。鶴竜が2014年春場所後に横綱昇進を果たした際、伝達式で親方が見せた感極まった涙と笑顔は、角界を代表する感動的な名場面として語り継がれています。
親方が病に倒れた後、鶴竜は「師匠のために」と土俵に上がり続けました。親方の急逝直後に行われた葬儀・告別式で、鶴竜が涙ながらに棺を担ぎ、師への尽きない感謝を述べた姿は、強固な信頼で結ばれた師弟愛の真髄として多くの人々の胸を打ちました。
一般に知られていない盲点とネットの誤解
逆鉾昭廣に関して、インターネット上やSNSでは一部事実と異なる情報や誤解が散見されます。読者が正しい知識を得るために、以下のポイントを検証・是正します。
- 誤解1:親方の逝去により井筒部屋が不仲で解散した?
実態:これは明らかな誤認です。井筒部屋の閉鎖は、15代親方の急逝当時に部屋を継承できる資格(年寄名跡や親方資格)を持つ後継者が即座に不在だったという大相撲協会の規定・制度上の理由によるものです。鶴竜ら所属力士は円満に同じ時津風一門の陸奥部屋へ転籍しました。 - 誤解2:井筒三兄弟は遺産や部屋の運営を巡って対立していた?
実態:全くのデマです。寺尾(錣山親方)は自らの部屋を興して独立していましたが、兄弟の交流は終生続いており、逆鉾の闘病中も寺尾が足繁く病院に通い、精神的支柱となって寄り添っていました。
【プロの結論】血統の重圧と職人社会における「師弟の精神的バウンダリー」
相撲部屋という特殊な伝統社会では、名門力士の子息として生まれることは計り知れない重圧(血統のプレッシャー)を伴います。逆鉾昭廣が偉大だったのは、父の相撲を模倣するだけでなく、自らの体格に合わせた「もろ差し」という唯一無二の技術体系を確立した点にあります。
また、弟子の育成においても、自身の成功体験を押し付けるのではなく、外国人力士である鶴竜の個性を尊重しつつ相撲の神髄を伝えました。これは現代の組織論や家族社会学における「健全な自立と心理的バウンダリー(境界線)」の好例であり、伝統を継承しながらも個々の人格を尊重した名伯楽としての姿勢は、現代を生きるリーダー層にとっても示唆に富む教訓といえます。
【逆鉾 昭 廣】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:逆鉾昭廣さんの家族構成はどうなっていますか?
A1:妻の智恵子夫人と、長女の福薗友香さん(元宝塚歌劇団花組の娘役・天咲千華)がいます。なお、長女の友香さんは2021年に大相撲力士の志摩ノ海(木瀬部屋)と結婚しており、井筒の血脈と角界の深い縁は次世代へと受け継がれています。
Q2:逆鉾が得意とした「もろ差し」とはどんな技ですか?
A2:相手の両脇の下に自分の両腕を素早く差し込む技術です。相手の自由を奪い、自分の腰を密着させて前進する(ガブリ寄る)ことで、大型力士相手でも一気に土俵外へ寄り切ることが可能になります。逆鉾はこの技術の第一人者でした。
Q3:弟の寺尾(錣山親方)とはどちらが強かったのですか?
A3:最高位はともに「東関脇」で互角です。通算勝ち星では息の長い活躍をした寺尾(860勝)が上回りますが、三賞受賞回数(逆鉾9回、寺尾7回)や直接の技術的評価では逆鉾の巧さが際立っていました。二人は異なる持ち味で昭和・平成の土俵を彩った永遠の好敵手です。
まとめ:昭和・平成の土俵を彩った名関脇の遺産
元関脇・逆鉾昭廣(15代井筒親方)は、力士として土俵を沸かせ、師匠として横綱を育てるという、大相撲人として最高峰の足跡を遺しました。58歳という早すぎる別れは惜しまれてやまないものの、その洗練された相撲技術と情熱的な指導哲学は、愛弟子や相撲界の歴史の中に今もなお鮮烈に息づいています。
井筒三兄弟が築き上げた伝説と、土俵に捧げた真摯な生き様は、時代を超えてこれからも多くの相撲ファンに語り継がれていくはずです。 (出典: 逆鉾 昭 廣(Yahoo!ニュース))